稲田植元の入城

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脇城に稲田植元が入城するまで

うだつの町並み、そして脇町を語る上ではずせないのが稲田家です。

「稲田家略記」によると

稲田植元(たねもと)は天文14年(1545年)に尾張岩倉城で産まれました。
植元(たねもと)が9歳の時、植元(たねもと)の父が亡くなり、
蜂須賀正勝が植元(たねもと)を引き取って養育します。


天正13年当時、長宗我部元親がおさめる四国を、豊臣秀吉は「四国征伐」を開始。
そのときに稲田植元(たねもと)は蜂須賀正勝とともに四国征伐に参加し、
「脇城」「岩倉城」を攻めたのです。


ところが、脇城、岩倉城の攻防では、長宗我部勢の守備、反撃が強く長期戦となります。

あまりにもの難攻不落、長期戦にいらいらした秀吉は、書状五ヶ条を送るのです。
その5か条の中には、兵糧攻め、水攻め、場内の女、子供も皆殺すことを命じる文も記述されていました。そんな過酷な攻防の中、とうとう脇城、岩倉城は陥落します。


戦乱があったと思われる場所。現在は住宅が立ち並び当時の面影もありません。
手前の低い山が脇城が建っていた虎伏山(虎が伏せているようだからついた名前)
戦乱があったとおもわれる地域


その結果、蜂須賀家政が阿波(現在の徳島県)に入国。
四国征伐の際攻略した脇城は阿波国北方の重要地点だったため、
蜂須賀家最高の家臣である稲田植元(たねもと)を脇城に入城させたのです。

植元が脇城に入場すると、長期の戦乱で荒廃した城下町の復興に力を尽くします。
まず、町の古老に意見を聞きます。

そして、城下町復興を委託された古老は戦乱の焼け野が原となった町跡に住民を呼び集める札をたてました。

「脇町之儀、先年之通り町並御取建仰付けられ候、右に付町屋敷の儀、地子諸役御免に仰付けられ何国何者に限らず住居相望みの者は、佐野善左衛門、吉田孫市方へ申出づべく候」

この建札により方々より人が集まり、復興し、町がにぎやかになっていったのです。
正に、いまのうだつの町並みの原形です。

その他、

脇指御免を仰付けられた町年寄六人や、町人を代表する五人組を十二人任命するなどし、町の治安を維持する自治組織を確立。

脇城の修復をし郭内に武家屋敷を建て並べる。(当時、阿波国北部一の名城となる)

町の繁栄策として、毎月6回の市を実施し、各地に市の宣伝をする。
月6回の市は常駐的な市になるため、各地の商人も本腰で集まってくるようになる。

藍の奨励によって、脇町は阿北(阿波徳島の北部方面)で藍の中心地となります。
周辺地域から藍葉が集荷され、すくもを製造し、吉野川を利用して徳島方面に運ばれ、帰りの船には海産物がのっているのです。


このことからもわかるように、今現在のうだつの町並みの原形となっているものは、
稲田植元(たねもと)の城下町復興政策が大きく関係していると思われます。

■参考文献、引用文献
「稲田家略記」
「徳島の文化4号」昭和59年
「脇町の文化2号」昭和62年




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